○尾瀬−山小屋三代の記  (後藤允著:「はじめに」より引用)

 日本列島の中央部の奥深い部分,群馬,新潟,福島,栃木四県が県境を接するあたりに,国立公園・尾瀬は位置する。
 高山植物の宝庫として,また端正な風景の秘境として明治の中頃から注目され,多くの論文,紀行文で紹介されてきた。たとえば,日本山岳会第三代の会長であった木暮理太郎氏(明治六年十二月−昭和十九年五月)は,明治二十二年夏,初めて尾瀬を訪れているが,後に『尾瀬雑記』の中で次のように述べている。

「尾瀬は日光と共に山中の水郷である。大小幾多の池沼と湿原とが到る所に展開して,これ程水郷と呼ぶに適した場所は他に少ないであろう。むしろ水が多すぎる位である。それが又一方に於ては特異の高原と称すべき地形を成しているから面白い。水郷であり高原であると同時に,更に之を繞って針葉樹に活葉樹を混じた大森林が発達し,背景として秀麗な燧岳と,雄偉な至仏山とを有するに至っては,山地水生の珍しい植物の宝庫であることを別にしても,景勝地としての尾瀬が如何に優れたものであるかを想像するに充分であろう。尾瀬は自ら二つの区域に分かれている。一は尾瀬沼を中心とし,燧岳を主峰とした沼の平とも称すべきもので,一は尾瀬ヶ原を中心とし,至仏山を主峰とした湿原である。(中略)かくも景勝の地である尾瀬が,日光と共に国立公園に指定されたのは,当然のことである。しかし心ある人を顰蹙せしめた尾瀬ヶ原貯水池問題は,その為に首尾よく解消したとも思われないのは訝しき限りである。願くは尾瀬は有るがままの姿で保護したいものである。徒に外国の真似をして,池さえあればボートを浮べ,公園でさえあれば自動車道を作らなければならぬとは限るまい。(後略)」


 いま尾瀬は,五月連休の水芭蕉の開花から十月中旬の紅葉の季節まで,約六十万の人が訪れる。山と水と,森と花と,人々は魅了されて,そして去って行く。しかし,降り積む雪の下で,永い冬に耐えなければならない人たちもいる。この尾瀬の美しく厳しい自然を生活の場として”共生”してきたのが,尾瀬沼畔・長蔵小屋の三代であった。
 初代,平野長蔵(ちょうぞう・明治三年八月−昭和五年八月)。明治二十三年,尾瀬沼西岸に小屋を建て,信仰の山としての燧岳はじめ尾瀬の開拓に努める一方,植物乱取,水力発電などの自然破壊に対し,激しく闘ってきた。その長男,長英(ちょうえい・明治三十六年五月−昭和六十三年一月)も,父の意志を継いで少年時代の入山以来,山守りの生涯を貫こうとしている。老父の懇望を受けて入山した三代目の長靖(ちょうせい・昭和十年八月−四十六年十二月)は,尾瀬沼と燧岳を望む三平峠のすぐ下まで,ミズナラ,ブナなどの自然林を切り倒し,山腹を削り,谷を土砂で埋めた自動車道建設を阻止する闘いの前面に立ち,一応その目的を達しつつも,吹雪の三平峠で凍死する悲運に遭遇した。運動に奔走するあまり,重なる疲労をおしての強行が,三十六歳の若い命を失う原因となった。
 長男の長靖さんを失ったとき,長英さんは,こう言っている。
「失礼な言い方だが,たとえあなた方の全部が自然保護をやめられるようなことがあったとしても,私どもはやめることができないんですよ」。なぜならば「私は,尾瀬の自然の中に生きる,一個の生物にすぎないのだから」
 ここには,自然に対する畏れと,自然と共に生きる一個の人間の強い意志がある。長蔵小屋三代の人たちは,自然とどう”共生”してきたか。
 尾瀬を”終のすみか”とする長英,靖子さん老夫婦に,三代のいまと昔を尋ね,そして尾瀬とその周辺の地を歩いてみた。
(後略)