○尾瀬沼  (大下藤次郎著:冒頭部分より引用)

今より十四年ほど前,雑誌「太陽」の第一巻一号に,利根水源探検記があった。 一行十余人で利根を溯り,藤原村より渓流を歩し,大困難を冒して一大平原の上に出た。 それは尾瀬ヶ原で,遙かに一湖沼を見たが,それが尾瀬沼である。 そしてその湖畔に小屋があって,岩代と上野の住人が物貨の交易場に宛てられてある。 会津檜枝岐よりするも,上州戸倉よりするもいづれも五里ほどあって,無人の境,風光極めて絶景であると誌してある。 私はこの記事を読んだ時より,その尾瀬沼をぜひ探ってみたいと思った。そして,会津方面の人にあふごとに,地勢を問ひ,順路を問ふた。 そしてその答ふるところは,地図の上では国道があるが,実際は僅かに細道の通ずるのみで,それすら夏は人よりも丈高き草に掩はれ,冬は十四尺の深雪にその道の所在さへ知れぬ。 その上山道十里の間人家もなく,一夏僅かに十数人の往来ある程故,とても都の人の行き得べきところでなく,よし往ったところで野宿をせねばならぬのと,誰からもほぼ同じやうな答を得た。 然るに雑誌「山岳」第一年第一号に,武田久吉氏の尾瀬紀行がある。これによって見ると,野宿といふても小屋があるらしく,戸倉から準備さへしてゆけば,大なる不便なしに滞留することも出来さうに思はれた。 次に中村文学士の「旅ころも」を読むと,同氏は友人と共にこの街道を通って檜枝岐へゆかれたのである。 その記事で見ると,湖沼は大したこともないがやはり景色は立派なやうである。
欧米の画家はよくテント旅行をやる。そして研究のために人跡無人の境にゆくことは珍しくない。 吾国ではあまりこのやうなことはしない,数年前,吉田中川両氏が日光赤薙山の炭焼小屋に泊まって写生されたことがあるが,東京から食物や寝道具までも携帯して往ったわけではない。 私たちの今度の旅はとにかく前例なき大仕掛けなものであるといへやう。
私は湖水が好きだ。去年日本アルプスの渓谷上高地まで往ったのも,実は宮川の池を見たいからであった。 その前年は,会津磐梯山の裏に秋元,檜原等の湖水をたづねた。地理学者のほかその名さへ知らぬ尾瀬湖は,画家未踏の地で,さぞかし景色のよいところであらうと思ふ。 今年はこの方面に遠征を試みて見ようと考へた。

まづ,群馬県利根郡片品村役場に宛てて照会状を発した。その返事に,尾瀬には小屋がある,修繕したら雨露を凌ぐことが出来やう,戸倉にては米塩の用意は出来る,人夫は得られるといふのであった。 更に前橋なる根岸文吉氏に手紙を出した。根岸氏は丸山晩霞君の知人で,植物採集のため,時々尾瀬地方へゆくとのことである,根岸氏からは早速返事があって,丁度高山植物をとりにゆくから,帰ったら報告するとのこと。 かくて七月初旬根岸氏は来られた。その話に,尾瀬に行く道は極めて悪路で,途中まだ雪があった,小屋は檜の突出しに大林区署で作った人夫小屋があって,これは役に立つつもりである,食物は戸倉にもあるけれど,米はとても食へぬ,沼田から送らせて置くほうがよい, 人夫は平生なら一日一円位ゐで幾人でも得られるが,七月は丁度養蚕の多忙な時であるから,まづ倍賃金も払はねばむづかしい,沼田の宿屋は恵比須屋,追貝では淀屋,戸倉では玉城屋,いづれも一泊五十銭位ゐとの話をされた。 これで要領を得た。早速同行者を募ったところ,第一に森島君が賛同し,それから赤城君八木君と同勢四人になった,出発は七月十二日と決めて,沼田の宿屋に為替を送って,戸倉まで上等白米八升と醤油一瓶を送らせた。 そして吾等は旅行準備にかかった。
食料として携帯したものは,ハム四斤,鰹節一本,砂糖,氷砂糖,佃煮,梅干,煎り豆,菓子,辛子漬,烏貝,福神漬の類,薬は「宝丹」「ゼム」マラリヤ予防の「キニーネ」「バンソー膏」「固腸丸」「ハブ草エキス」の類, 日用品としては提灯,マッチ,蝋燭,小刀,石鹸,インキ,紙,筆,油紙,細引,懐炉の類,衣類は冬シャツ,ヅボン下,手袋,襟巻,腹巻,真綿,蚊防具,毛布,枕,外套,草鞋掛足袋の掛がへ等を重なるものとし,他は通常旅行に要する品々を用意した。
出発五六日前に,同行者を集めて尾瀬沼会を開いた。そして携帯すべきものの分担方法,並びに旅行中の種々なる注意をした。 その注意の重なるものは,食物の節制,特に生水を飲まぬこと,列を離れて単独行為をとらぬこと等である。

予定通り十二日朝出発,同夜沼田へ一泊,十三日は追貝へ,十四日に漸く戸倉へ着いた。 ここにて携えし,食料のほかに蕎麦粉二升を用意し,十五日尾瀬沼畔の小屋に到着した。 山小屋は先年信州地方で見たものはなかなか完備したものであったが,尾瀬の小屋は如何にも憐れなもので,少しく用意の不十分であったのを知った。 我等の宿営地は海抜四千余尺の地で,標高七千八百余尺といはるる燧ヶ岳の麓にある,周廻三里の山湖,これを尾瀬沼といひ宿舎を去ること僅かに二丁,風光極めて明媚極めて幽静である。
ここに止まること五夜,その間出来るだけスケッチした,あまりに材料の多いので,落ちついて二三枚の絵を作って満足して帰ることは出来ぬ,よいと思ふところは一つ残らず画いてゆきたい,一日に七八枚も写生した時もある,高原に咲いてゐる花ばかり集めて画いても,一月や二月の画材に苦しむことはない。 六日目にここを去ったが,この上留まるべき時日と用意のないのが如何にも残念に思はれた,私は出来ることならこの地に完全な小屋を作って年々来て研究したい,そして世の風景画家にこの地を紹介したいと思ふ。 旅行中の有様は,次項尾瀬日記について承知せられたい。
(以下省略)


大下藤次郎 (明治3年〜明治44年)
水彩画家。中丸精十郎,原田直次郎に師事。明治38年水彩雑誌「みずゑ」を創刊。自ら主管を務めました。また,日本水彩画会研究所を開き水彩画の普及につとめました。著書に「水彩画之栞」「水彩写生旅行」などがあり,文章家としても活躍しました。
この尾瀬への写生旅行は明治41年7月12日から22日にかけて行われ ,帰京後大下氏は東京で展覧会を開くとともに,臨時増刊「みずゑ」尾瀬沼特集号にこの尾瀬を紹介する紀行文を載せました。平野長蔵氏はこの功績を顕彰して尾瀬沼畔に記念碑を建てました。